大学の始まりと法律学の台頭
正確な創立年は不明だが、神聖ローマ帝国のフリードリッヒ1世バルバロッサ皇帝が、同大学に対し、学生に関する裁判権(学生たちが訴えられた場合には、市当局ではなく、学生に寛容な教授たちが裁く制度)について特許状(いわゆる「ハビタ(Authentica Habita)」)を与えたのは1158年のこと。チャールズ・ハスキンズ(Charles H. Haskins)のいう「12世紀ルネサンス」の真っただ中の出来事であった(伊藤俊太郎『十二世紀ルネサンス』(講談社学術文庫)参照)。ちなみに、現在のボローニャ大学は、その創立年を1088年としている。
もともとボローニャには、11世紀ごろからペポ(Pepo)やイルネリウス(Irnerius)といった法学者がいて、その名はヨーロッパ全土に知れ渡っていた。古代後期から中世に受け継がれたヨーロッパの学問は「自由学芸=リベラル・アーツ」を中心に展開されていたが、それを代表したのが、文法学、修辞学、弁証術、算術、幾何学、天文学、音楽のいわゆる「自由七科」だった。ボローニャは、このうち文法学、修辞学、弁証法の三科の教育で有名で、ペポやイルネリウスは、修辞学の教師として、論題発見の規則(トピカ)や法廷討論の技法、そして法律文書の作成術などを教えていた。彼らは、権威あるテキストに釈義を施すスコラ学の伝統に従いながら講義を行っていたが、その過程で、かつて6世紀に東ローマ帝国の皇帝ユスティ二アヌス1世が編纂させた『ローマ法大全』を再発見し、それに丁寧に註釈をつけたことで名声を博した。
『ローマ法大全』は「勅法彙纂」「学説彙纂」「法学提要」「新勅法」からなるが、中でも当時ほとんど知られていなかった「学説彙纂」を授業用テキスト(ボローニャ手書本)として復活し流布させたことで、ボローニャには、ヨーロッパ各地からたくさんの学生が集まった。後に中世ローマ法学の権威として「四博士」と呼ばれることになるブルガルス(Bulgarus)、マルティヌス(Martinus)、ウゴー(Ugo)、ヤコブス(Jacobus)らも、イルネリウスの薫陶を受けた弟子達である。